鎌倉は三方を山に囲まれ、南が海に面した攻め難く守りやすい地形です。
永らく朝廷と貴族に仕えてきた武士が、ついに自立して打ち立てた幕府を、頼朝は天然の要害に守られた鎌倉の地に置きます。頼朝の街づくり、道づくりとはどのようなものだったのでしょう。
頼朝はまず都の朱雀大路(すざくおおじ)にならって鎌倉の中央を南北に走るメインストリートの若宮大路(わかみやおおじ)を造ります。都では朱雀大路の起点は大内裏(だいだいり)ですが、鎌倉では鶴岡八幡宮を幕府の守護神として中心に据えました。現在も幅広い立派な若宮大路ですが、当時はさらに広い33メートルもの幅がありました。中央の一段高い段葛(だんかずら)もすでに作られています。若宮大路に平行して小町大路(こまちおおじ)や今小路(いまこうじ)が、これらに直行して東西方向に横大路(よこおおじ)、大町大路(おおまちおおじ)、車大路(くるまおおじ)が整備され、武士の都が姿を現しました。
また、征夷大将軍に任命される前の文治(ぶんじ)元年(1185年)すでに東海道の駅制(えきせい)の整備を始めています。駅制とは、一定区間ごとに乗り換え用の馬を用意して急使などの乗継、乗り換えを可能にするシステムです。頼朝が定めた「駅路の法」により京都鎌倉間の所要日数が従来の十日以上から一気に最短三日にまで短縮されたといいます。
源氏が三代で滅び、執権北条氏の時代になると、御成敗式目で有名な北条泰時が七か所の切り通しの整備に着手します。これらは鎌倉七口(かまくらななくち)ともいい、鎌倉と外部を結ぶ出入り口となるため、それぞれに北条一族の居館が配されて守りを固めていました。
鎌倉幕府の道路網で特筆すべきは、『鎌倉道(かまくらみち)』です。御恩と奉公という言葉に表される鎌倉時代の封建制度は、幕府が御家人の領地を保証すること(御恩)に対し、御家人は有事の際すぐに鎌倉に駆け付け幕府の為に戦う(奉公)という関係で成り立っていました。そのため、いざ鎌倉へと馳せつけるための軍用道路の整備が何より大切です。幕府は上の道、中の道、下の道という3本の幹線道路を中心に整備を始めました。上の道は藤沢、関戸、府中、所沢を通って北西方向に延び、中の道は二子で多摩川を渡って赤羽から古河、日光方面へ、下の道は六浦から丸子で多摩川を渡り、品川、浅草、柏、土浦へと常陸方面へ延びていきました。
現在の若宮大路の段葛。鶴岡八幡宮の方へ道幅が徐々に狭くなっており、実際の距離よりも長く見えるようになっている
鎌倉源氏山公園の源頼朝像
これらの鎌倉道は、しばしば古代駅路に近いルートをたどり、それがないところでは近世に街道となるルートと重なっています。まさに中世の道が古代と近世をつないでいるのです。
参考文献:「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年