坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は平安時代初期に桓武(かんむ)天皇によって征夷大将軍に任命され、奥州の平定にあたった武人として有名です。
田村麻呂が奥州遠征をしたころ、街道はどのようになっていたのでしょう。
大化の改新(645年)を経て、日本は律令制国家に舵を切り、戸籍を作り税制や兵役を整備して中央集権国家に衣更えしました。国土を守るためにも、租庸調(そようちょう)を納めさせるためにもまず道路が必要になります。そこで大がかりな土木工事が行われました。律令制が取り入れられ戸籍が整備されたからこそ大規模な労働力の動員も可能になったのです。
古代の道は、実は近世の道より規格が立派でした。駅路(えきろ)と呼ばれる大道では幅が12メートルもあり、両側には雨水を排水するための側溝が造られています。伝路と呼ばれる細いタイプの道でも幅は6メートルでこれにもきちんと側溝があります。道筋も真っ直ぐ直線的で、たとえ障害となる丘陵地があっても迂回しません。ですから現代の高速道路建設の現場でよく遺構が発見されるのはルートが似ている古代の道路なのです。
神奈川県でも、律令の時代に造られた道が道路工事などにともなって発掘されています。平塚市中原上宿(なかはらかみじゅく)の構之内(かまえのうち)遺跡では、幅9.7メートルの古代道路とみられる遺構が見つかっています。中世には幅3メートルに縮小されているので、中央集権制が弱まって地方の道路の維持が難しくなっていった様子がしのばれます。
坂上田村麻呂が活躍した平安初期、桓武天皇は平城京からの遷都に続き、その頃盛んに蜂起を繰り返していた蝦夷(えぞ)の討伐を決断しました。
長野県安曇野 住吉神社の坂上田村麻呂像
写真提供:日本の銅像探偵団
すでに奈良時代の天平(てんぴょう)9年(737年)には大野東人(おおののあずまひと)という将軍が陸奥(むつ)の国多賀柵(たがのき)(宮城県多賀城市)から出羽柵(でわのき)(秋田市)までの「直路」の開削を願い出て許可され、『岩を刻み木を伐り、谷を埋め峰を削った(続日本紀)』難工事の末、道路を完成させました。その一方で、桓武帝の時代の延暦(えんりゃく)8年(789年)には、紀古佐美(きのこさみ)率いる官軍が阿弖流為(あてるい)の蝦夷軍に大敗してしまいます。起死回生を賭けた延暦
12年(793年)進発の官軍に、征東副使として加わったのが坂上田村麻呂でした。田村麻呂は軍の中心として目覚ましい働きをし、延暦16年、征夷大将軍に任じられます。そして延暦20年(801年)の遠征で勝利を収めると、翌年には蝦夷の族長阿弖流為ら500人余りが投降し、対蝦夷戦には一応の終止符がうたれたのです。
坂上田村麻呂の東北遠征当時、日本は五畿七道(ごきしちどう)に分けられていました。宝亀(ほうき)2年(771年)には武蔵国が東山道(とうさんどう)から東海道に編入され、だいぶ現在の地域区分に近い姿になってきます。道路の整備も駅制(えきせい)の整備とともに進み、大規模な行軍も可能になりました。もちろん大野東人の直路も軍用道路として威力を発揮したことでしょう。
辺境の地だった奥州を、日本の国土に組み入れる戦いをするためには、まず道を通すことが肝要だったと言えます。道があってこそ人が住み、文化が浸透します。坂上田村麻呂は優れた武人であっただけでなく、稲作や養蚕を蝦夷の人々に伝播することで文化的に懐柔していく方針を取った戦略家でもありました。武力衝突を繰り返して双方に多くの犠牲を出してきた蝦夷との戦いが終結し、帰順が進んだ陰には坂上田村麻呂の叡智だけでなく、大野東人などの、道を築いた先人の努力もまた重要だったのです。
参考文献:「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年