「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
この句は松尾芭蕉が最期の旅に上った元禄7年(1694年)5月、川崎宿まで見送りに来た門人たちに与えた句です。季節は麦秋、畑一面の麦の穂が風に靡く中、その穂にも掴まりたいような頼りない様子の芭蕉に、門人たちは永の別れを覚悟したといいます。門人たちが芭蕉の後姿を見送った八丁畷(なわて)は八丁(約870メートル)も続く畑の中の真っ直ぐな一本道で、現在は京急八丁畷駅のそばにその跡がみられます。芭蕉はその年の10月、病のため大阪で世を去りました。
八丁畷を抜けて鶴見川を渡ると、生麦事件で有名な生麦です。
幕末の文久2年(1862年)前薩摩藩主島津久光が江戸から京都に向かう行列にイギリス人4人が騎乗のまま乗り入れ、薩摩藩士に無礼討ちにされて一人が死亡した生麦事件は、薩英戦争のきっかけとなる大事件でした。
このあたりが、交通の大動脈であったと同時に、外国人居留地にも近く、居留民が自由に通行できるエリアに含まれていたことから事件は起こってしまいました。現在、石碑や看板で現場を知ることができます。
(道路文化研究所理事長 武部健一 『東海道絵図を歩く』より)
撮影スポット
八丁畷駅の近くにある芭蕉の句碑
生麦事件碑(現在、横浜環状北線工事のため移設中)