1590年(天正18年)、北条氏の小田原城が落城し、豊臣秀吉の天下統一が完成しました。秀吉は最大の強敵と見た徳川家康に関八州(かんはっしゅう)を与え、京都から遠ざけます。家康が江戸幕府を支える交通路の整備にかかったのはこの頃からでした。

 そして1601年(慶長6年)東海道に伝馬制(てんませい)による宿駅制度を定めます。幕府開闢(かいびゃく)に先駆けて、家康はまず東海道の整備にとりかかったのです。

 江戸幕府の五街道とは道中奉行に管轄される東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中並びに水戸佐倉道のことです。道中奉行は、街道や宿駅の取り締まりなどの管理に当たる役職で、大目付と勘定奉行とが兼務しました。交通網の維持には財政の裏付けが必要なのは今も昔も変わりません。

 また、五街道が通過する地域の多くは、徳川家譜代(ふだい)の中小藩の領地と直轄地の天領(てんりょう)でした。それは大名の配置が道路網構築と一体で、街道を守ることが即ち徳川幕府を守ることだったからです。


 では、五街道の規格はどのようなものだったのでしょう。

静岡駿府城の徳川家康像
写真提供:日本銅像探偵団

 テレビの股旅時代劇などでみる細いでこぼこ道というイメージとは違い、例えば東海道の道の規格では、標準の道幅がおおむね三、四間(5.4~7.2m)、徳川の主要な城下は五間(9m)かそれ以上、箱根峠など急峻な山間部では二間(3.6m)となっていたようです。また、日光街道の発掘調査では、街道が造られたころの道幅が約9m、その後9.4mに拡げられ、明治以降5.7mに縮小されたことがわかりました。

 路面については、一般には砂利道で、坂道では石畳になっているところもみられます。箱根峠は、もともとは細竹を束にして敷き詰めた竹道でしたが、毎年人夫3,000人を動員して敷き替えなければならないことから、やがて石畳に変えられました。

 街道といえば宿場ですが、江戸時代の宿場は幕府から伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)の交付を受け、公用の為の運搬業務である伝馬の義務を負わされていました。その見返りとして公用以外の荷物や人の運搬、宿泊業務の独占が認められました。ですから旅人の側も宿場以外で宿泊することはできなかったのです。

 宿場は幕府が造った街ではなく、街道沿いに自然に出来上がっていた宿場町に後から伝馬の義務を課していったため、宿場同士の距離はまちまちです。東海道で最長距離は小田原―箱根間の16.6㎞、最短は御油(ごゆ)―赤坂間の1.7㎞、平均は9.2㎞です。

 伝馬朱印状を受けた正規の宿場以外は、間の宿(あいのしゅく)と呼ばれて昼間の休み茶屋の営業のみが許可され、こっそり人を泊めると訴えられていました。

 大名の参勤交代は街道を彩る大イベントです。どの大名も江戸へ続く街道を通り宿場では本陣に泊まるので、街道上で鉢合わせしたり、同じ宿場でかちあったりすることも起こりえました。その場合家格が下位の大名の方が上位に譲ることになり、道をよけたり、せっかく入った本陣から出て他所に移ったりと、何かと波風が立つことになります。

 そこで、大名家は皆、街道の先に斥候(せっこう)を走らせました。どこに何藩が通行中でどの宿場に宿泊予定なのかを逐一報告させ、臨機応変に対策を立て、無用な軋轢(あつれき)を避けるためです。譲られることはあっても譲ることはまずない加賀百万石前田家が、参勤交代のために作っていた街道の詳細なダイヤグラムが残っています。譲って悔しい思いをしたくない小藩だけでなく、譲らせて禍根を残したくない大大名も細心の注意と心遣いで街道を往復していたことが分かります。

 参勤交代というと、徳川幕府が諸大名に江戸出仕を強要するために定めた制度のように思われがちですが、実は天下の覇権を握った家康の歓心を買おうと、諸侯が江戸に詰めきりになってしまったのがそもそもの始まりです。大名の側にしてみれば、あらぬ謀反の疑いをかけられて改易(かいえき)されるよりは、江戸にいる方が安心だったのでしょう。殿様たちが国元に帰らず地方の政治が混乱しては幕府も困ります。幕府はとりあえず江戸に詰めかける諸大名の半分をまず領地に返し、交代で出仕するように申し渡しました。三代将軍家光の時代には改訂された武家諸法度(ぶけしょはっと)で明文化し、参勤交代を義務化しました。

 参勤交代には莫大な費用が掛かります。加賀前田家のような大大名の行列の人数は多い時で4000人にも及び、費用は現在の金額で5億円以上にも上ったと言われます。多額の出費は藩の財政を圧迫しましたが、街道は潤い、文化の地方への伝播(でんぱ)が加速しました。

 ご馳走(ごちそう)と言えば、今は豪華なお食事のことになっていますが、もとは相手の便宜のために馳(は)せまわることを意味し、参勤交代のときに他藩が自国領内を通過する際の便宜を図ることもご馳走といいました。ですから、他藩の参勤交代の為に道を修理し、ぬかるんだ道に藁(わら)を敷くなどして通行しやすくしてあげることもご馳走でした。便宜を図ってもらった藩は「ご馳走になり、誠にありがとうございました」と丁寧にお礼をしたためています。

 こうした努力の積み重ねで江戸時代を通して街道は整備、維持され、お伊勢参りや金毘羅詣で(こんぴらもうで)など、庶民までもが旅行を楽しめる豊かな江戸文化が花開いたのです。

参考文献:
「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年
「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む」忠田敏夫 平凡社 1993年
「参勤交代」山本博文 1998年 講談社現代新書

▲このページのトップへ